超Aboutな旅日記

訪れた史跡を片っ端から、適当にレビューするブログです。

【レビュー】長門国二ノ宮「忌宮神社」

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冷戦が終わった当時、人々はこれからは平和が訪れると楽観的に考えていた。

というのも、民主主義国同士で戦争が起こることは少ないとされているためだ。

例えば、政策を決定する過程が透明であるために相互の行動が予測可能であるのが理由の一つだ。

共産主義から民主主義に移行する国が増えらから、戦争になる確率はより少なくなるはずと、市民も学者も政治家も口を揃えて言っていたことだろう。

しかし、これはプリン・アラモード(好物)よりも甘い考えだったようだ。

冷戦時代のような世界的な大戦争の危機は去ったが、代わりに地域固有の対立が顕在化するようになってしまった。

民族の間の対立は最たる例だと思う。

最近でも、アゼルバイジャン人とアルメニア人の間の領土争いであるナゴルノ=カラバフ戦争も発生し、ウクライナ系の人とロシア系の間で対立を深めているのも、ニュースで見た通りだ。

日本人は対岸の火事だと思って、コタツでぬくぬくみかんを食べて、ニュースをぼーっと見ていることだろう。

私もこの中に含まれるけれども…

しかし、太古の昔、ここ日本でも民族の対立というものがあったようだ。

今回は関係が深い、ある神社をレビューしていく。 

 

アクセス

まずはGoogle MAPを見ていただこう。

 

歴史

まずは現地の案内板を見てみよう。

忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下、この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫の香稚で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀して一段となり、忌宮をもって総称するようになった。忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五十六年に改修する。古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている

出典:「長門国二ノ宮旧国弊社 忌宮神社 由緒」 忌宮神社 現地案内板

まとめてしまうと、第十四代仲哀天皇が九州にいる反乱勢力(熊襲)を制圧するために、一時的に政治を行った場所を起源としている。

つまり天皇陛下がどこかに移動した際、一時的な宮殿として建てられたものだったという。

以上が当社の起源だ。

熊襲とは?

彼等に関する記憶は、風習、言語含めあまり記録に残っていない。

コトバンクによれば、"古代の南部九州の地域名、あるいはその地域の居住者の族名"のことをいうらしい。

また、日本人種新論で国学者本居宣長の説も紹介されている。

内容としては、”熊とは、其の國人の勇猛强悍なるを云ひ、襲とは勇男の約りたるにして…(中略)…故に熊襲なる語は、共に其の國人の勇猛なることを意味する語より出たるものなりとせり。"

つまり、熊はこの民族の人たちが勇猛であることを示し、襲の意味が勇男(いさお)を短くしていることからきているため、熊襲は勇猛果敢な者たちだった、ということを示しているという。

他にもいくつか説があるのだが、結局のところ、熊襲は九州南部の地域名やそこに住んでいる人たちのことであり、勇猛な民族という意味の熊襲が示す通り、大和政権と反目し、何度も戦いあった関係、古代中国でいう漢民族遊牧民族のようなものだと言えるのかも知れない。

仲哀天皇熊襲忌宮神社

熊襲と朝廷の関係は、昔から悪かったようだ。

例えば、仲哀天皇の2代前にあたる、景行天皇は朝廷に背いた熊襲を攻撃するために、自ら九州に向かっている。

また、仲哀天皇の父にあたるヤマトタケルも再び再び反乱した熊襲のリーダーを切り殺したそう。

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"御歴代百廿一天皇御尊影" 三英社 1894 wikiより引用)

そして仲哀天皇の時代も例外ではなかったようだ。

日本書紀にこんな一文がある。

"熊襲叛之不朝貢"

熊襲という方たちは朝廷へ背いて、贈り物を送らなかったらしい。

そこで仲哀天皇は彼らを討つため、穴門(現在の山口県下関市)まで移動し準備することにした。

このような中、地方である下関でも政治を行えるよう、仮の宮殿、「豊浦宮」を作ったという。

これが忌宮神社の起源だ。

ちなみにその後の仲哀天皇だが、熊襲を攻撃するために筑紫(現在の福岡県)まで移動した。

そこで会議をしていると天皇の奥さんに神様が取り憑いて、こんなことを言いだした。

「ペンペン草も生えない熊襲の国を攻めるより、金銀財宝ザクザクの朝鮮半島の国を攻めた方がいいんじゃね(意訳)」

でも、天皇が海を見回しても、そんな国はない。だから神様は嘘をついていると思い込み、そのまま熊襲を攻撃したのだ。

結局、いうことを聞かないことに神様の怒りが触れたのか、仲哀天皇は戦死し、彼の魂は現在の忌宮神社に祀られたという。

以上が仲哀天皇熊襲平定と忌宮神社の関係だ。

現地レビュー

忌宮神社のある下関市は大きな港町だ。

今は建物や防波堤がたくさん建てられているが、本質は変わらない。

潮風が頬をくすぐり、海独特の匂いが心地よい。そしてたくさんの海産物もとれ、住むにはもったいない場所だ。

こんな良いところで行宮を建てた、仲哀天皇は羨まけしからん。

この行宮があった場所が現在の忌宮神社らしい。

それでは入口から見ていこう。

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忌宮神社がある場所は、昔は長州藩の城下町があったらしい。

現地もその姿を残し、風流ではある。

しかし、江戸という時代はもちろん車というものがなかったわけだから、それを想定した道が作られていない。

おかげ様で、狭い道路を何度も行き来することになった。

免許をとった数日後に、壁にぶつけた才能のない私には酷だった。

さて、入口の鳥居をくぐった先、印象に残ったのは「」だった。

神社という場所で、なぜ別名、名古屋コーチンで有名な鶏という呼称が出るのか?、と思った人は的を射ていると思う。

その疑問に答えると、神社の中ではニワトリが放し飼いにされていたのだ。

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現代の日本人から見れば、ニワトリはただの家畜、食料、唐揚げ美味い程度の認識ではあるが、古代の人にとってはその限りではない。

例えば、ニワトリは神の使いとして有名だ。神話の時代、天照大神が天岩戸にお隠れになった時、ニワトリを泣かせて外に呼び出したそう。それがきっかけで神、天照大神の使いになったようだ。

また、お正月で有名な十二支の一つに、ニワトリがいるのも昔の人々が神聖視していたことがわかる。

こう考えると、神社にニワトリがいるのも自然なのかもしれない。

さて本題から少し逸れたが、次は本殿を見てみよう。

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やはり、長門國の二ノ宮だけあってか、存在感がある気がする。

さて、散策している途中、少し興味深いものがあったので載せておきたい。

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案内板にはこう書かれていた。

数方庭の由来と石
十四代仲哀天皇は九州の熊襲の乱を平定のためこ西下、ここ穴門(長門)豊備(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島新羅国の塵輪熊襲を煽動し豊浦営に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高騰、助騰の兄弟まで相次いで討ち死したので天皇は大いに慣らせ給い、御自ら弓矢をとって塵輪を見事に倒された。賊軍は色を失って退散し軍は歓喜のあまり矛をかざし旗をを振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数力庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったと
ころからその首を埋めて頑った石を鬼石と呼んでいる。

出典:「数方庭の由来と石」 忌宮神社 現地案内板

分かりやすくいうと、熊襲という反乱勢力を先導していた朝鮮半島にある新羅國の塵輪という人を倒した際、その死体の周りを踊ったことを起源とした石らしい。

しかも現在でも、数方庭祭りとして周りを踊りのが続いているから、驚きだろう。

何も死体の周りを踊らなくても良いのに…とは思うが、それほど塵倫が憎き相手だったのだろうか。

少し調べたら、この案内板に書かれてあることは石見神楽というものの演目の一つになっているようだ。

浜田商工会議所によれば、

あらすじは「神2人鬼2人が対決する鬼舞の代表的な神楽です。第14代仲哀天皇(帯中津日子)は、外国より日本に攻め来た数万騎の軍勢の中に塵輪という、身に翼があり、黒雲に乗って飛びまわり人々を害する大将軍に官軍には誰も敵(かな)うものが居ないと聞き、天皇自ら天の鹿児弓、天の羽々矢を持って高麻呂を従え迎え撃ち、激戦の末に退治します。」といった感じのようだ。

塵輪が翼があったり、黒雲になっていたりと悪魔のような感じになっているのは、戦いの正当性を高めるためなのだろうか。

「自分たちは人間ではなく、悪いことを企むゴロツキを倒したのだから、この戦いには正しい」

と言った感じなのだろうか?しかし塵倫や熊襲にもそれぞれ戦ったり、背いたりする理由があったのだと思う。

中には、朝廷側にとって都合が悪いものがあった可能性もある。だから、塵倫のように悪魔のような姿に仕立て上げたり、熊襲のようにあまり古事記日本書紀に彼等の記録を残さなかったのか。

朝廷側の所業は当時の食わなきゃ食われる自然状態のような時代にはしょうがないと思う。だけれども、ツヴァイクの言うように、"歴史はいつでも敗者に背を向けて、勝者を正しいとするものだということを忘れてはならない"、と感じる。

参考・引用

長門国二ノ宮旧国弊社 忌宮神社 由緒」 宗教法人忌宮神社 現地案内板

コトバンク熊襲」2022年2月18日

沼田頼輔「日本人種新論」嵩山房 明治36年 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/832936/32 2022年2月18日

景行天皇」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2022年12月20日URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇

ヤマトタケル」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2022年12月20日 URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマトタケル

「足仲彥天皇 仲哀天皇」 『日本書紀について』 2022年12月20日 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_08.html

「数方庭の由来と石」 宗教法人忌宮神社 現地案内板
宗教法人 忌宮神社,"神社概要”,iminomiyajinjya.com/information,2021年9月29日 
浜田商工会議所 ”スマホで見る 浜田石見神楽演目ガイド 「塵輪」"  www.hamadacci.or.jp/kagura_s/sma/03/index.php 2021年9月29日

"御歴代百廿一天皇御尊影" 三英社 1894 wikiより引用

【レビュー】7ヶ月で作られたインスタントな近世日本最後の城郭、山口県の勝山御殿

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現代の日本人に欠かせないものは?と聞かれた時、皆はなんて答えるのだろうか。

インスタントラーメンだよね(食い気味)。

人間が持っている時間というものは有限だ。それは今も昔も変わらない、千古不易だ。

しかし現代人は娯楽、仕事とスケジュールがどこぞの有名アイドル並みにキツキツになっている。

インスタントラーメンは忙しい方の時間を短縮して、おいしいものをレベルの高い合格点でオールウェイズ提供してくれる。

だから令和の世のマストアイテムと呼べるだろう。

そういえば、山口県には重要度が高かったからなのか、7ヶ月で作られたそれこそインスタントなお城が存在したという。

今回はそこを訪れた。

 

アクセス

まずはGoogle MAPを見てみよう。

 

勝山御殿は下関中心街から離れて、新下関の近辺にある。

だから、訪れる際は新下関駅から出るバスを使ったほうが都合が良いと思われる。

丁寧に説明すると、新下関駅から降りて城下町長府・関門医療センター経由のバスに乗り、御殿町というバス停で降りる。

その後、北へ少し歩くと目的の場所が見えてくる。

歴史

現地の案内板はこのようなことが書かれていた。

勝山御殿跡について
一八六三年(文久三年)風雲急を告げる幕末関門海峡において外国との間に戦いが起こる。
当時の長府藩主 毛利元周は、海岸に近い櫛崎城(県立豊浦高校東側)が危険なため急遽この地域(勝山御殿)を起工する。わずか7ヶ月で完成・スピード築城の記録となっている。
今も残る石垣や石畳は御座の門、大書院室、御寝所など六〇余りの部屋を持つ御殿があったことを忍ばせるに十分な威容を残している。

引用:ふるさと勝山の明日をつくる会 平成12年3月

いわく、もともと海の近くに拠点があったが、海外の船との戦闘に対処するために新しく作られたのが、勝山御殿なのだという。少し詳しく述べていこう。

長府藩と本拠地 櫛崎城について

多分、このブログを見ている方は知識が偏ったオタク(褒め言葉)しかいないと思うが、一応説明しておこう。

長府藩とは

江戸時代には、「支藩」という制度があった。コトバンクによれば、本家から分かれた者が藩主となっている藩とのことだ。

長州藩も例に漏れずこの制度を作っており、4つの支藩が存在していた。有名なのは関ヶ原の戦いで東軍と内通していた、吉川広家だと思う。戦後、彼は長州藩の東を守るため、岩国藩という支藩の1つを与えられ活躍している。

閑話休題

この4つの支藩の1つとして、長府藩があった。現在の山口県下関市に存在していた。先程の吉川家の藩とは反対に西の守りを任されていたという。

藩庁、藩の本拠地となったのは「櫛崎城」。Google MAPで見ればわかるがここら辺が藩の中心地だった。

しかし徳川幕府による一国一城令により廃城となり、かわりに藩庁はふもとの高校に館を置くことになっている。

しかし廃城後も軍事的な価値が高かったらしく、2つの砲台を備えていたという。

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(現在でも櫛崎城の石垣が残っている)

しかし、幕末になってくると藩庁のある土地にある問題が起こる。

外国船の襲来

偉い人物が自ら先頭に立って戦うことはどの地域、時代でも絶賛を受けていた。

トロイの木馬で有名なトロイア戦争で、王子自ら最前線に立ち、トライアを守るヘクトールは現在まで叙事詩として残っているし、自軍の3倍もあるペルシャ軍を先頭切って勝利した、アレクサンドロス大王は今なお人気の人物だ。

しかし幕末は少し事情が異なる。火砲が発達したためだ。長距離から攻撃することができるため、偉い人が先頭にたってもすぐ死んでしまうだけで無駄になるのだ。

当時、関門海峡山口県と福岡県の間にある海峡)には外国船が多く姿を現し、中には戦闘を交えるケースも起きた。

有名なのは下関戦争だ。

ありていに言えば、アメリカ、イギリス、フランス、オランダvs長州藩との戦争だ。

現代の感覚でいうと、1つの日本の県が4つの大国と争う、どういう外交をすればこんなことになるの?と頭を傾げてしまうほど無謀な戦いである。

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Jean Durand-Brager "The Second Battle of Shimonoseki, 5th September 1864 " 1865 public domain Wikipediaより引用

実際、この戦いで激しい攻撃が加えられ集落の一部は大きな被災を被り、砲台も占拠された。

こんな感じで海峡はとても危険だったようだ。

もちろん先程のGoogle MAPから分かるように当時の藩庁であった「櫛崎城」は海峡の真正面にあるから戦場の最前線にあたる。

偉い人達がこんなところにいてはロングレンジからハメ技みたいに集中して攻撃されるし、結果的に指揮系統も乱れてしまう。一昔前のように偉い人が先頭に立つのは邪魔なだけで、栄誉もクソもない。

だから、少しでも早く戦略的に良い場所を藩庁として立て直すことが必要になった。これが「勝山御殿」である。

勝山御殿

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名前自体は「御殿」という名前がついており、貴族が「いとをかし」と和歌を唄いながらノンノンと過ごしてそうな雰囲気がある。実態は敵の攻撃を想定したファンキーでアグレッシブな城郭だったようだ。

城の曲輪、石垣や土塁は砲撃戦を意識した西洋式の砲台の作りをしているし、本丸の作りも砲撃の目標となるやぐらなどは作られず、平屋の殿舎を建てていたらしい。

また個人的には立地も気になる。先程のGoogle MAPから分かるように3方が山に囲まれているため、非常に守りやすく、敵には攻めにくい土地になっている。まるで3方が山に囲まれて天然の要害となった鎌倉のようだとかんじる。また海からの砲撃にもさらされず、長府の中心街からの連絡も容易で防衛にもってこいな実践的な土地だ。

もし敵に攻められてもある程度は耐え抜けたのでは?と思ったりするが、皆はどう考えているのか是非とも教えて欲しいところだ。

現地レビュー

今回は趣向を変えて、実際私が城を責めている体にして書いていこうと思う。

一応どこにあるかも示してあるので、参考にどうぞ

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①大手口 

大手口とは、ひとつの城の区域内へ踏み込むために設けられていたいくつかの入口のなかでも城の正面にあたる入口のことであるという。

つまり敵側からすれば、最初の難関ともいえる。

城入ろうとする敵を威圧するように、大手門では石垣で固めることも多いがここも例外ではないようだ。

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パンフレットによれば、三ノ丸の石垣は「落とし積み技法」というものを使っているらしい。なんでも小さな石材を用いる、効率性を優先したものらしい。

確かに時代の背景から考えれば、効率性を優先して少しでも早く拠点を移さなければ、海上からの攻撃に晒され続ける、貝殻がないヤドカリみたいになってしまう。

しかし、効率性を優先したということは頑丈に作られていないとする。ならば、砲撃ですぐ石垣が崩れてしまい、すぐ突破されるのではないかと個人的には心配になる。

当時の人はどう感じていたのだろうか。

またここの大きな特徴として入口の横先に少し出っ張りがある。専門的な言葉では張り出しとかいうらしい。

写真の真ん中に少し出っ張りが見えると思う。これが張り出しだ。

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敵が大手門の正面を攻撃している間、この出っ張りから横を弓で攻撃するらしい。

敵側からすれば正面に集中したいのに、横からチクチク攻撃されれば肉体的だけでなく、精神的にも参るだろう。

上司から叱られている中、後ろから陰で同僚やらがチクチク小声で嫌みをいわれているのと同じ感じだろうか。

ダメだ。思い出しだけで胃に穴が空いちゃいそう。

次に行こう。

②三ノ丸城塁

ここの上面では西洋式の砲台が設置されていたそうだ。

今はもう埋められているが、昇降用の階段まで設置されていたらしい。

城郭から地上まである程度高さがあるので、ナポレオンが高地をとることで勝利し続けたように優位に砲撃戦を進めることができたのではないかと思う。

昔は土塁で直接姿が見えないようにしていたようだが、今はその片鱗もない。

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③二ノ丸城塁

ここの特徴はなんといっても、石垣が円弧状に配置されてある点だ。

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写真でも石が曲がりながら並べられているのが確認できると思う。

敵が一直線に侵入されないようにするためらしい。

デパートのバーゲンセールにて全力疾走するババアマダム達を想像してみてほしい。

彼女らが全力疾走する先にいきなり大きなカーブがあるとどうなるでしょうか。

多分、スピードを大きく落とすか、ブレーキが効かず壁にカートゥーンアニメみたくぶつかるかの2択だろう。

この城郭でも同じだと思う。まっすぐ責められたら勢いを殺せず、その攻撃力が大きな負担になってしまう。だからその勢いを少しでも殺し、防御側が優位になるようにしているのだろう。

④御殿

最後は御殿周りの守備だ。

まず石垣は先程の「落とし積み技法」とは違う。

山県積み」という石積みの技法を使っているという。珍しい積み方のようで、朝日新聞によれば、"巨石をふんだんに使い、石材の長軸を斜めに置き、その上の石材は並びが逆になるように長軸を斜めに置くことだ。天端には大きな石を据え、隅角部には縦石を使う傾向もあるようだ"、という。

写真を見たら早いと思う。

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大きな巨石ばかりを使用しているが、緊密に隙間が空かないような綺麗な作りをしている。

上から大きな力が働いた地層のように見える。

個人的な感想を言えば、石と石の間に隙間がないので手をかける場所がなく、責めにくいなと思う。

結局、勝山御殿は廃藩置県後は豊浦県庁となったが、山口県に統合されたことでその役目を終えた。

しかし幕末当時の幕末当時の軍事的な指針や築城理念を体感するには持ってこいな場所だ。

是非一度訪れては?

引用・参考

ふるさと勝山の明日をつくる会 「勝山御殿跡について」現地案内板 平成12年3月

コトバンク防府市歴史用語集「支藩」の解説支藩』2021年12月31日https://kotobank.jp/word/支藩-285038

長府藩」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年12月31日https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長府藩

「下関戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年12月31日https://ja.m.wikipedia.org/wiki/下関戦争

下関観光施設課 「串崎城跡」 現地案内板 

刀剣ワールド城 「大手門」 『日本の城用語集』 2021年12月31日 https://www.homemate-research-castle.com/useful/glossary/castle/2123501/

下関市 「国指定史跡勝山御殿跡〜幕末、外国艦隊から備えた長府藩の拠点城郭〜」現地案内板 2020年10月 2021年12月31日 

萩原ちさこ「幕末に急造された近世最後の城、勝山御殿 長府の城と城下町(3)」 『城旅へようこそ』 朝日新聞 2019年2月4日 2021年12月31日https://www.asahi.com/and/article/20190204/300023104/

下関教育委員会教育部 文化財保護課幕末の中、築城された「日本最終期の近世城郭」〜国指定史跡 勝山御殿跡〜 現地案内ガイドブック」 平成31年3月

【レビュー】滋賀県の外国人が作った日本最古のダム、オランダ堰堤

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最近、マングローブ森林伐採の記事があった。

マングローブ林とは熱帯の汽水域にある低木の集まりで、海からの風やさ波から陸地を守るなど、現地の人にとっては大切なものだ。

しかし林をエビの養殖地に変えたり、多くの木を製材にするなどして森林が減少しつつあるという。

結果的に台風の高波を防げず、陸地に住む何万人もの人や家や家畜が失われるなどの被害がでているらしい。

こんな感じの乱伐の問題は日本でも昔から往々にある。

例えば、昔の滋賀県もちょうどそんな感じだった。

奈良から平安時代にかけて寺院・仏閣のために大量の材木が京都や奈良に運ばれていたため、山は荒れて禿山になり、明治に至るまで度々大洪水が起きていたという。

さて、当時の役人はこの問題にどう対処したのだろう。
明治政府はオランダ人の技師の協力の元、堤防を作ることにしたのだ。

これが今回紹介する「オランダ堰堤」である。

まずはどこにあるか見てみよう!

 

 

アクセス

Google MAPでどこにあるか確認する。

見ての通り、四方が森に覆われた場所にある。

辺鄙な場所であるゆえ、バスを乗り継いでいかなければならない。

とりあえず、「上桐生線」というバスに乗れば目的地まで一直線だ。

歴史

近くにあった案内板には以下のような言葉があった。

この一帯の森林はヒノキの美林であったが奈良時代から平安時代にかけて、寺院・仏閣の造営に大量の材木が奈良・京都に伐り出された。このため、山は荒れて禿げ山になり、明治に至るまで大洪水がたびたび起こり、下流の人々に大きな被害を及ぼし続けた。そこで政府は、明治六年「淀川水源砂防法」を制定、淀川水系の治山治水工事に着手しオランダから砂防工事の技術者ヨハネス・デレーケ氏を招いた。ここに現存するえん堤は、明治二十二年同氏の指導の下に作られた割石積えん堤で、わが国最古のものと言われている。なぜ、百年以上も経った現在もなおその機能を発揮し続けているのだろうか。その理由としては、水襲(下流側)の放水路面がアーチ型になっており、中央に水を集めることで、両袖部が削られにくい構造であることや、えん堤下流面を階段積み(鎧積み)にすることで、流水が階段面に当たって衝撃を称らげ、水部の洗掘を防止する構造であることなどが考えられる。現在もなおその効力を発揮している巧みな構造技術であり、生きた遺跡ともいわれ、日本の産業道三百選に選定されている。

出典:「オランダえん堤」滋賀森林管理署 現地案内板 平成13年12月 

案内板によれば、オランダのヨハネス・デレーケ氏の指導のもと建てられた、日本最古の堰堤であるとしている。

そういえばオランダと聞くと、ある言葉を思い出す。

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という格言だ。
オランダは干拓によって国土を広げ続けた国。ある意味人工的に作られた国家ともいえるかもしれない。

例えば、首都アムステルダムの地名の由来は「アムステル川のダム(堤防)」という意味からも分かると思う。

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Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/アムステルダム

しかし干拓の影響で海抜が低い場所が多く、水による被害が多かった。
そんな背景もあり、オランダの水害を防ぐ、治水技術はとても高い。

こんなすごいテクノロジーを取り入れているのだから、堰堤は当時の政府肝入りの事業だったのだろうか?

閑話休題

まずはそんな治水技術の匠の一人、ヨハニス・デレーケを紹介していきたい。

ヨハニス・デレーケとは?

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農林水産省::https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/toyama_02/index.html

お雇い外国人という言葉は聞き覚えがあるだろうか。

簡単に述べれば、欧米の技術・学問・制度を取り入れて強い国家を作るために雇用された外国人のことだ。

彼もその制度の一環で、1873年明治6年)6月に31歳でオランダを離れ日本まではるばるやってきたという。

彼は河川の改修など治水の分野でさまざまな功績をあげた。

例えば、木曽川の工事が有名だ。

スペインの闘牛よりも猛々しい暴れ川だった木曽川も、おかげさまで洪水などの事故を大幅に減らすことができたという。

そんな日本の治水界のヒーローの彼が「上流域で砂防する」目的で建てたのが、「オランダ堰堤」だ。

実際、どのような構造になっているか見てみることにしよう。

オランダ堰堤の構造

オランダ堰堤は100年以上経った今でも現役だという。イナバ倉庫もびっくりだと思うがなぜ長生きなのか。

理由としては2つの構造が関係している。

1.放水路面がアーチ状になっている

2.えん堤が階段状になっている

1に関しては、水が流れる部分が中央に集まることで、堤防の端が削られない構造になっている。

2に関しては階段面が衝撃を和らげ、地面が削られるのを防止しているのだという。

これのおかげで現在でも活躍できているのだ。

さて、次は実際に現地に行ってきたので感想を述べていこう

現地レビュー

本当は京都からママチャリでここまで来たことをものすごく話したいが、多分それだけで日を跨ぐことになりそうなので割愛。

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今時刻は早朝。小鳥は目を覚ましたのか、元気にさえずりだし、草葉の朝露が輝いている。

周りが山に囲まれているのか、自然の風景を精一杯楽しめる。

これに目をつけてか、オランダ堰堤がある場所はキャンプ場になっていた。

だからなのかカラフルなテントが点々と並んでいる。中には朝ごはんの支度をしている方もいらっしゃった。直火で焼いたソーセージの匂いが私の鼻をくすぐるが、ここは我慢して先に進もう。

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こんな感じのあぜ道をせっせこ歩き続けると、川が見えてきた。

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やはり人間の手が何も加えられていないのか、バカラのグラスと同じぐらいの透明感がある。

何かよくわからない謎物質Xが浮いている、どこかの都会の川とは大違いだ。

そんな綺麗な川の正面には、どこかのヨーロッパの古城にありそうな石積みがあった。

これが噂の「オランダ堰堤」だ。

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もう少し大きいものだと思っていたが、じっさいは予想より一回り小さかった。

しかし、ところどころ苔がかったところとがあるからなのか、やたら歴史というか貫録を感じてしまう。

少し近づいてみよう。

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先程話したと思うが、堤防を丈夫にするために少しアーチ状になっている。

また階段状になっているのも見応えがある。石の一つ一つが不揃いで古墳の石積みみたく少しデコボコになっているが、これも人間臭さが残っていて逆に良いと思う。

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最後、帰路の途中ヨハニス・デレーケさんの銅像が鎮座していた。今も陰ながら日本を見守ってくれているのでは、と感じる。

今日の報告は以上だ。

引用・参考

富山県 農林水産部 農村整備課 計画係「内務省技術顧問 ヨハネス・デ・レーケ」 農林水産省 2021年12月20日

https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/toyama_02/index.html

「お雇い外国人」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年12月20日

アムステルダム」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2021年9月28日 
https://ja.wikipedia.org/wiki/アムステルダム
「ヨハニス・デ・レーケ」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2021年9月28日

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヨハニス・デ・レーケ
「オランダえん堤」滋賀森林管理署 現地案内板 平成13年12月

 

 

 

 

【レビュー】京都最古のマンホール?なぜこんなところにあるのか、徹底レビュー

マンホールは地域によって様々なデザインが存在する。例えば、京都市では御所車(牛車)を用いたデザインとなっている。

このようなおしゃれなものとなっているが、実は大正時代のマンホールが存在する、レアな場所が京都のどこかにあるらしい。今回はここをレビューしていきたい。

 

アクセス

まずはGoogle MAPで確認していこう。

京都御所のすぐ真北、某女子校のすぐ近くにある。

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しかし以上のように住宅地の真ん中にあるので、もし見物する際は周囲への配慮が必要かもしれない。

歴史

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そもそもマンホールというものは地下の下水道などの管理のため、作業する人が中には出入りできるように開けられた穴とそれをふさぐ蓋だ。

つまり地下に流れる水などを管理するために作られるのが、マンホールというわけだ。

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今回のふたは端の方に「下水」と書かれているのがわかると思う。

だから京都が下水道を設置する時、その管理のために作られたと考えるのが普通だ。

しかし、京都市上下水道局のホームページを見るとこのような記述がある。

京都市の下水道を作る法律が初めて作ららたのが、『大正15年』だとしているのだ。

こんな感じで時代的には少し違うものとなってしまう。

頭の中が和食懐石並みに少ない私では、これ以上考察しようがないので、実際に京都上下水道局の方に聞いてみることにした。

「マンホールについて聞きたい」
といきなりのたまうヤバい奴に対しても、丁寧に質問に答えて下さった水道局の方には謝辞を申し上げたい。

作られた経緯

水道局の方が仰ったことをまとめると以下のようになった。

結論から述べると、このマンホールは大正時代、道路に埋められた水路を点検するために作られたという。

まず背景から述べていこう。

昭和初期の下水道が作られる前、雨水を川に流す水路が作られていた。

ある日、この上に道路を作ることになり、水路を埋めることになった。

埋められた水路を点検するために、このマンホールのふたが設置されたというわけだ。

まとめると下水道が整備する前にあった雨水を川に流す水路が地下化した際、それを点検するために設置されたという経緯があるという。

設置されている場所について

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まずはGoogle MAPのストリートビューを見てほしい。

ちょうど曲がり角にある。

曲がり角というものはトラブルが絶えない場所だ。

食パン加えた女の子がよくぶつかっているのが、簡単に想像できる。

下水道や水路の世界でも同じように不都合が多い。
水路などでは水が激流のように流れる。
その流れをむりやり止めてしまう場所が「曲がり角」というわけだ。
これはちょうど、全速力を出した車がいきなり曲がれないのと大体一緒だ。

こうなると水の流れが悪くなってしまい、さまざまなトラブルを誘発する。

頻繁に確認できトラブルがあればすぐ対処できるために、このマンホールを曲がり角がある場所に設置してあるのだ。

 

現地レビュー

私はマンホールのふたが大嫌いだ。

というか、バイクや原付に乗る人は共通だと思う。

マンホールはタイヤが滑るからだ。

タイヤが滑れば、高確率に転倒してしまい、自分はけがするしバイクは傷がついてしまう。

こんな感じの訳でマンホール憎しの私がお送りいたします。

それでは初めていこう。

京都といえば?と聞かれれば、京都市民は一斉に答えるだろう。

京都御所』と。

そう、江戸時代まで京都は天皇陛下がお住みになっていた場所だ。だからその住居であった『京都御所』は、市民にとって誇れる場所なのだろう。

まあ、今日はここを紹介するわけではない。『京都御所』のすぐ北にある、大正時代に造られたマンホールのふたとかいう、一部のマニアしか喜ばないところをレビューしたい。

まずは近くまで歩いてみよう。

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やはり御所に近いから、歴史的な場所も多いみたいだ。

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今は住宅地しかないが。

少し気になるのが、この住宅を建てた時の値段だ。

京都や奈良のような歴史的な都市は、家を建てるさいに文化財が眠っているか調査する必要がある。

しかももし見つかれば、本格的な調査費用は個人に請求されるのだから驚きだ。

ここも『京都御所』に近いから、さぞマーベラスな宝物があるだろうから、まあまあな費用を負担したのではないか?

そんな野暮なことを考えてつつ歩いていたら、ついに今回の目的を発見した。

これが京都にある大正時代のマンホールだ。

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昔は横書きの場合、右→左に文字が書かれていた。

よく戦前の新聞や雑誌でも見かける。

今回も例に漏れず、右→左へ「大正五年」と書かれていることがわかる。

細かいがここからもマンホールの歴史を感じられる。

もう少し近づいてみよう。

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大正時代からあるはずなのに、私たちの身近にある有象無象のものと質が全く変わらない。

意外と大正時代の技術も捨てたもんじゃないかもしれない。

実際に飛んだり跳ねたりしてもびくともしなかった。ものすごく頑丈に作られているようだ。

京都はなぜか今回のような古いマンホールのふたが他にもいくつかあるらしい。

京都の文化財に見飽きた物珍しい方は是非探してみては?

引用・参考

京都府 「マンホールふた デザイン・コレクション」2021-12-8 https://www.pref.kyoto.jp/gesuido/16400033.html

京都市上下水道局 「京都市の下水道の歴史」 『キッズページ』2018年7月30日 2021-12-18 https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000116329.html

「マンホール」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年9月29日 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マンホール

「マンホールの蓋」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年9月29日 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マンホールの蓋


 

【レビュー】京都で一番古い橋。明治の意匠を色濃く残す、七條大橋とは⁉︎

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今回は京都の鴨川にかかる、現在一番古い橋、七條大橋を訪問することになった。今こそ、デートスポットとして有名な川だが、一昔前はほんわかな雰囲気は何処へやら、洪水やら氾濫やら頻発していたらしい。そんな曰く付きの川にかかる橋の一つ、七條大橋。どんな歴史があったのだろうか。

 

アクセス

さてまずはどこにあるか、Google MAPで確認してみよう。

地図を見ると分かるが、京都駅がある大きな道から塩小路通りを超え、七條通りに橋が建設されている。

もしここにいきたい人がいるならば、バスで行くのがおすすめだ。

ルート

①京都駅前のバス停から「東山通り・北大路バスターミナル行き」のバスに乗る。

②このバスに乗った後、「七条京阪前」で降りる。

③降りた先で大きな川の方へまっすぐ向かえば、七條大橋に到着する。

歴史

次に七條大橋に関する歴史について説明していこう。現地の案内板には以上のことが書かれてある。

七条大橋
七条大橋は、明治末期に進められた「京都三大事業」(第二琵琶湖疏水の建設、上水道事業、道路拡張及び市電の敷設)に際し、建設された橋梁である。
明治四四年(一九一一年)十一月に着工、大正二年(一九一三年) 三月に竣工し、三大事業による橋梁としては、唯一現存している。
本体の設計は、当時、東京帝国大学教授であった柴田畦作、意匠は東京帝国大学建築学科出身の建築家である森山松之助らが担当した。
親柱や金属製高欄 (現存せず)には、当時の流行を取り入れた幾何学的な意匠の「セセッション式欧風意匠」が用いられており、鉄筋コンクリート橋としては全国的に見ても規模の大きなものであった。
昭和六二年(一九八七年)、京阪電鉄の地下化に伴い、琵琶湖疏水鴨川運河が暗渠となり、疏水上の一径間が撤去され、現在は、五径間連続の鉄筋コンクリート造アーチ橋 (橋長八二メートル、幅員一八メートル)となっており、「三十三間堂の通し矢」をイメージした矢車模様の高欄に改修されている。
平成三一年三月二九日付けで、国登録有形文化財に登録された。
引用:京都市 現地案内板

まとめてしまうと、「京都三大事業」という計画の際に明治期に建設された橋であり、当時の流行である「セセッション式欧風意匠」を取り入れておしゃれになっているという。

京都三大事業とは?

この事業の目的はずばり、京都の更なる発展を目指した都市の計画となっている。

初代京都市長であった内貴甚三郎という方が計画を始めることになった(京都市上下水道局総務部総務課 令和2年1月:p16)。

最終的に最終プランは第 2 代京 都市長・西郷菊次郎が「京都市三大事業」として策定した(NPO法人京都景観フォーラム 2013.2.3:p4)。

「三大」と名がついているので、もちろん3つの大きな取り組みが行われることになる。

  1. 第二琵琶湖疏水(第二疏水)建設
  2. 上水道整備
  3. 道路拡築および市電敷設

の3つだ。

京都経済同友会の「京都再発見」がいうには、"近代都市に不可欠の基盤装置・設備(いわゆるインフラ)を整備しました。この大プロジェクトは「近代化」の仕上げと言うことができます。それにより、京都は20世紀に向けて大きくはばたくことができるようになりました。"、ということだ(経済同友会)。

つまり、この大工事のおかげで京都は当時の大都市であるパリやロンドンに近づくことができ、近代化をなしとげることができた。 

さて、今回紹介する「七條大橋」は3の道路拡築および市電敷設の一環として建てられる。

次はもう少しこの橋に焦点を当ててみよう。

七条大橋とは?

経緯

とりあえず市電という電車はとりあえず重い。いつまでも古い橋のままではその重さに耐えられない。このままでは機関車トーマスもびっくりの事故が起きてしまう…!

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機関車トーマス WIKIAより引用)

そこで丸太町橋四条大橋七条大橋が、市電の荷重に耐えられる近代橋へと、架け替えられた(京阪電車)。

建設当時、構造物に使用されだした鉄筋コンクリートを 用いたアーチ橋の中で群を抜いて巨大だったらしい(NPO法人京都景観フォーラム 2013.2.3:p9)

そして大正3年に完成し、現在まで立派な姿を見せている。

デザイン

先ほどの現地案内板を引用すると、意匠は東京帝国大学建築学科出身の建築家である森山松之助らが担当し、当時の流行を取り入れた幾何学的な意匠の「セセッション式欧風意匠」が用いられている、ということだ(京都市 現地案内板)。

まず、セセッションとは何?と思う方もいるだろう。

Wikipediaがいうには、過去の芸術様式から分離して、生活や機能と結びついた新しい造形芸術の創造をめざしたものでモダニズムの布石になった、という(Wikipedia)。

このセセッションは大正期に大いに流行ったそうだ。

とりあえず機能美や合理性を追い求めたデザインのようで、現在世界中でよく見る豆腐のような味気ないビルに慣れている私たちにとっては、無駄な装飾のないこの様式には親近感があるかもしれない。

現地レビュー

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七條大橋の前までやってきた。

ここから見ると、日本全国どこでも見れるようなただの橋に見える。

来るところを間違えたか?しかしGoogle MAPは確かにこの場所を示している。

疑問に思いながらも橋の横をのぞいてみた。

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そこには幾何学的なデザインが見えた。

これが見えた瞬間多分スーパーコンピュータの演算よりも早く、私は認識できただろう。

「これが七條大橋だ」と

大阪のおばちゃんが着るヒョウ柄服のような派手さはない。ただ機能性と合理性を重視したようなデザインだ。服で例えると、さしずめユニクロのTシャツだろう。

しかし、その機能性の中にシンプルな美しさを備えているデザイン。空気抵抗を抑えるために設計された飛行機が思わず美しく感じるのと同じだ。

そんな特徴的なデザインのおかげですぐ認識することができたのだろう。

皆はこんな残念な経験をしたことがあるだろうか。

マクドナ○ドのCMにて、掲載されているハンバーガーがめちゃくちゃ美味しくみえる。で、これを頼んでワクワクして待つ。でも実物は見本と違い、なんかバンズはシワシワだし、肉もジューシーでない。私もこの経験から広告を本当に信じてよいか疑心暗鬼になっている。

しかし皆の諸君、安心して欲しい。

どこかの女優に写真で見るより実物みた方がかわいいと感じるように、七條大橋は写真で見るより美しかった。

写真ではわからない、コンクリートの重厚感が十分に体感できる。

他のアングルからも見ていこう。

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欄干、橋の手すりの写真だ。

昔は大正浪漫あふれるデザインだったそうだが、戦争の影響でなくなったらしい。

今の欄干は最近デザインされたものだ。

デザインはまるでなろう小説でよく見る魔法陣のようで、厨二病という病気があれば問答もなく診断されるであろう、私にはとても魅力的にみえる。

しかしよく見ると矢が描かれているようにみえる。

近くにある三十三間堂の通し矢をイメージをしたものらしい。

最後に全体から見てみよう。

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綺麗なアーチが目を引く。

アーチというものは昔から主要な建築方法だったらしい。

それこそ都市に水を供給するため、古代ローマ人は「ローマ水道」を造った。その際、川や谷を渡って水を運ぶ際に橋を作ったが、それも一部はアーチ橋だった。例えば、フランスにあるポン・デュ・ガールは有名だろう。

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Wikipediaより引用)

大量の水が流れても、アーチのおかげで水圧を分散することができたという(荏原作業所 EBARA)

構造自体は原始的ながらも頑丈な造り。

七條大橋が今も現役なのはこのアーチ故なのだろうか。

以上が今回のレポートだ。

 

引用・参考

京都市 「七條大橋」 現地案内板

NPO法人京都景観フォーラム 「鴨川・まちと川のあゆみ」『KYOTO  KEIKAN FORUM 2013 SYMPOSIUM 』2013.2.3

京阪電車七条大橋(しちじょうおおはし)」 『京阪沿線の名橋を渡る』2021年12月7日https://www.okeihan.net/navi/bridge/bridge09.php

京都経済同友会 第23回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その3)『京都・近代化の軌跡』 2021年12月7日 https://www.kyodoyukai.or.jp/rediscovery/

「ゼツェシオン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年12月7日 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ゼツェシオン

ポン・デュ・ガール」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年12月7日  ファイル引用:Original file (3,456 × 2,304 pixels, file size: 1.58 MB, MIME type: image/jpeg)

「ジェームズの脱線」『機関車トーマス WIKIA』 2021年12月7日 写真引用

荏原作業所(EBARA)「vol.1 1985年世界遺産ローマの水道橋 ポン・デュ・ガール およそ2000年前に造られた奇跡の建造物」『人と水の歴史を旅しよう』2021年12月7日 https://www.ebara.co.jp/waterhistory/vol001.html

京都市上下水道局総務部総務課 「琵琶湖疎水記念館 常設展示」京都上下水道局 令和2年1月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【レビュー】山口県に残された赤レンガのダム。桂ヶ谷貯水池堰堤

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今回は山口県山口市にある、赤レンガの古いダム、「桂ヶ谷貯水池堰堤」について書いて行きたい。        

先日、私も初めて行ったが、駐車する場所など色々と苦労したので、これも共有していきたいと思う。

 

 

 

アクセス

まずはGoogle MAPでどこにあるか確認してみよう。

・自動車の場合は、新山口駅から8分。

・バスの場合は、新山口駅から秋芳洞行きのバスに乗り、「釜ヶ渕」という場所で降りる。

そして数分歩けば、無事到着だ。

今回はどうやって「桂ヶ谷貯水池堰堤」まで行くのか、おごおり地域づくり協議会が作成してくださった地図を元に説明したい。

 

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どうやっていく?

ルート①

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Google MAPより参照)

 

まず、「小郡運動公園」と書かれた看板がある場所を右に曲がる。     

この際、小さな橋が目印になると思う。f:id:Jiris:20211121140019j:image

橋を渡ったら、斜め右方向にある道に曲がっていく。           

しばらく坂が続くが、諦めず頑張ってほしい。              

上の写真を見ると分かると思うが、一車線の道路となっている。      

もし車で行く場合、正面から車が来た際、一度バックして道を譲らなくてはならない。             

私のような車をうまく運転できない方にはあまりオススメできない。

後述する「駐車場①」に止めたあと、歩いて登るべきだと思う。      

工事現場?が見えれば、あともう少しだ

。ここから道なりに進んで行けば、このような看板を目にすると思う。   

矢印通りに進んでみよう。      

写真のようにきちんと整備されて、山道でも歩きやすくなっている。そこから少し歩けば、目的地に到着だ。

 

ルート②

先程、「小郡運動公園」と書かれてある看板を右に曲がるまではと同じだ。

曲がったすぐ後、直角に右に曲がる。

自転車道とか書かれている、少し狭い道が目印になるだろう。

そこから少し歩くと、石碑のようなものが見えると思う。

この奥を進んで行けば、目的地に到着する。

しかし先程のルートとは違い、少しあぜ道なので、それなりの装備でいくことをオススメしたい。

他にもいくつかルートはあるようだが、これについては次回また行った時に書きたいと思う。

 

駐車場について

駐車場

県道28号線の道路沿いにある。f:id:Jiris:20211121133524j:image

まず、県道に沿って走っていると、大きな橋の前に横断歩道と小さな看板が見えると思う。 

拡大するとこんな感じ。

ここを曲がると、駐車場に無事到着だ。

車一つ分のスペースしかないが、こんな廃墟に興味を持つのは一部しかいないので、多分問題ないだろう。

 

駐輪場

先程ルート②で石碑のようなものがあったが、そのすぐそばにある。

あまり良い写真はなかったが、写真の左に駐輪場がある。

ツーリストの皆様方には、ここに止めて散策することをオススメしたい。

ツーリングで足がパンパンの中、奥のあぜ道を歩かせるのは少々鬼畜の所業のような気もするが…

駐車場に関しては、おごおり地域づくり協議会曰く、他にもあるそうだが、それもまた追記していきたい。

 

詳細

そばにあった立て看板にはこのようなことが書かれていた。

登錄有形文化財
旧桂ヶ谷貯水池堰堤

 

旧桂ヶ谷貯水池堰堤は、大正一二年三月に竣工した旧水道堰堤で、堤高
約一三メートル、提幅約三メートル、提長約二四メートルの重力式コンクリート造堰堤です。
小郡町中心部は、江戶時代の「海開作」による埋め立て地に立地して
おり、住民は、水不足と水質不良に悩まされてきました。 

大正五、六年頃から上水道建設の機運が高まり、大正八年から水源調査に着手、大正九年には町内の有力者により上水道期成同盟会が組織されました。

大正一一年四月に工事が始まり、大正一二年三月に竣工、同年四月には給水が始まりました。

これは、山口県内では、下関市に次ぐ第二番目の本格的な上水道でした。完成した堰堤は、小郡の名所として絵葉書となり、また小学校の
遠足の目的地ともなり、多くの住民に親しまれました。

戦後に至るまで稼働し続けましたが、大規模な上水道施設の整備に伴い、昭和三〇年頃にはその役割を終えました。
当時の土木技術水準の高さを現代に伝えるとともに、緩やかなアーチ平面と煉瓦積みで丁寧に築かれた取水塔や高欄は、今なお優美な外観を保ち続けています。

引用:山口市教育委員会

少し長いので要約すると、このダムがある土地は埋め立て地なので、水があまり手に入らなかった。

だから上下水道の設備を作ることとなり、その一環として建てられたそうな。

江戸時代の長州藩は、藩の収入を安定させるため、沿岸を埋めたてた大規模な開墾が多くおこなわれてきたという(山口県教育庁社会教育・文化財課)。

特にダムがある山口市小郡・南部地域の多くは海で、開作によって農地や塩田が広がり、現在の姿になったのだそう(山口商工会議所)。

当然、川とかない場所に、カッコウの托卵並の無理矢理さで土地を拡げるわけだから、水は足りなくなる。

だから、上下水道を作って快適に暮らそうとしたのだ。こうして、「桂ヶ谷貯水池堰堤」は造られた。

昔から街のシンボルとして有名だったそう。

今はもう稼働していないというが、在りし日の姿を見ることができるのだろうか…

 

現地レビュー

今回は正規ルートっぽい、石碑がある入口から潜入していく。

まず、一番初めに目についたのはこの石碑。

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『小郡上水道貯水池入口』

確かに、私が今からいきたい場所が大きく書かれてある。

しかし後ろを見ると、私の服装(半パン・クロックス)ではNGであろう、ゴツゴツした道、生い茂った草。

「来るところを間違えたか…」

そんな気持ちとは裏腹に、足はどんどん奥へ奥へと入っていく。廃墟を見たい気持ちが勝ったようだ。

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いざ入ってみると、整備がきちんとなされていて、歩きやすい。

しかし、こんな山の中に本当にダムがあるのだろうか…

川口浩探検隊ならば、「その謎を解明すべく、森の奥地へと向かった」とこれ見よがしなテロップが表示されることだろう。

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数分後、暗い森の中に小さな光が見えた。

なんだろうかともう少し近づいてみると、やっと分かった。

お目当の建物にたどり着いたようだ。 

 

ここが「桂ヶ谷貯水池堰堤」だ。

想像していたよりも、数倍大きい。

また建物から水も流れていて、まるでまだ稼働しているかのようだった。

少し上に移動してみよう。

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赤のレンガがとても目立つ。

先程、下から見れば、コンクリートか石造りが目立つ、地味な印象を受けていた。

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しかし横からから見ると、中世ヨーロッパの古城のような小洒落な雰囲気に様変わりだ。

ちなみに真ん中にある丸い建物は、取水塔だったらしい。

ここで水の出し入れを調整していたよう。

私が一番気に入った部分は、ダムの手すり部分だ。

所々欠けている部分はあるが、チェック柄状に丁寧に積まれている。

ジェンガのように少し押せば倒れていきそうな精巧な姿。当時の職人の苦労が偲ばれる…

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中まで詳しく見たかったが、危険なのか立ち入りは制限されていた。

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崩壊する危険性を考えるとしょうがないのかもしれないが、少し残念だ。

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少し遠くから撮影。

稼働していた時は、水が溜まっていたようだが、今はもう完全に干上がっているようだ。

推測にはなってしまうが、満杯になった水が貯水ダムの姿を鏡のように水面に映る様は、さぞ綺麗だったと思う。

長年地域のために働き続けたこのダムは今は使われなくなり、今は朽ちていくばかりだ。

それでも、地域の役に立ったという功績は一生消えることはない。

そのためかボロボロになっても、なお輝いて見える。

以上で今回の報告を終わる。

 

山口市は取り壊す金がないのか、先人のものを大切にする性格があるのかは分からないが、他にもこういった貴重な建築がいくつか残されている。

今後、それもレビューしていきたい。

 

引用・参考

おごおり地域づくり協議会 「登録有形文化財 旧桂ヶ谷貯水池堰堤散策ルート図」現地案内板

山口市教育委員会登録有形文化財 桂ヶ谷貯水池堰堤」現地案内板

山口県教育庁社会教育・文化財課 「長州藩/内容:産業」『山口県文化財』 2021年11月21日

https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/support/theme/tyousyuu/tnaka.html

山口商工会議所 「山口湾の開作 かつてここは海だった!」 『小郡・山口南部地区地域資源発掘事業 南の地図』2021年11月21日https://www.yamacci.or.jp/minaminochizu/yamaguchibay.html

 

 

 

 

 

 

 

 

【レビュー】下関にあったイギリス!?旧下関英国領事館の歴史

イギリスの外交は、それはそれは目を見張るものがあった。

どこかのアフリカでは原住民に天然痘がついた布団をプレゼントをし、中国では麻薬を売って大儲けし、貿易をやめようとすれば、開戦して無理矢理要求を呑ませた。しまいにはパレスチナをあげる内容をユダヤ人、アラブ人、フランスにそれぞれ同じ約束をし、現在のパレスチナ問題の原因もしっかり作った。そんな目的のためなら容赦がない紳士の国、イギリスであるが、この国が建てた建築が山口県にあると言う。

興味があれば、是非ご覧頂きたい。

 

 

 

詳細

さて、まずは旧下関総領事館について簡単にまとめてみよう。

まずはどこにあるか、Google MAPをみよう。

詳細

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  • 開館時間は9:00〜17:00
  • 入場は料金は無料
  • 2階は喫茶・パブなどの飲食店が併設

歴史

まずはこの建物について書かれていらものがあったので、引用しておこう。

下関英国領事館は、第一次日英同盟締結直前の明治34年(1901)9月、赤間町26番地に開設されました。駐日英国公使アーネスト・サトウの本国への具申によるものでした。
開設時は仮の領事館として商店であった小さな日本家屋を使用していたことから、明治39年(1906)12月、現在地に領事館を新築し移転しました。大正11年(1922)まで専任の領事が着任し、その後、領事代理による事務が行われましたが、日英関係の悪化により、昭和15年(1940)に業務を終えました。
建物は、戦後の昭和29年(1954)
下関市の所有となり、さまざまな用途で利用されてきましたが、近年
では文化財建造物として大切に保存するとともに、内部を公開するなど
して積極的に活用しています。

引用:旧下関英国総領事館 

少し長いのでまとめると、アーネスト・サトウさんという方がイギリス本国に具申して建てられたそう。

これから日英関係が悪化する1940年まで、日本の領事館として使われ続けた。

ちなみに領事館として使用するために建てられた建築としては、日本最古だという。

 

領事館とは?

まずは大使館について説明しなければならない。通常は派遣先の国の首都におかれ、外交活動の拠点としている(Wikipedia )。

これに対し、領事館も役割は一緒である。しかし、異なる点は首都とは別の主要都市に建てられる点だ。Wikipediaによれば、不測の事態にはリスクを分散しつつ大使館の機能をスムーズに移転できるため、地理的な便益のために設置されるという(Wikipedia)。

アーネスト・サトウも地理的な便益のために、「下関総領事館」の設置を具申したそうだ。

 

経緯

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Wikipedia 2007年3月3日)

アーネスト・サトウはイギリスの外交官だ。英国の公使館で通訳、駐日大使を務めた方である(Wikipedia)。翻訳者、公使として日本と深く関わりがあった。彼は下関港門司港を評価し、英国領事館の設置をすすめた。

例えば、このような報告書を本国、イギリスに送っている。

"下関港門司港は、ひとつの港湾の呈
をなしている。この地域の貿易は近年発
展を遂げ、今後更なる増大が見込まれる。
この点を考慮し、英国商人の権益を保護
するため、門司か下関のどちらかに関門
地域の海事監督業務を管轄する領事の駐
在が必要と思われる"
明治32年7月20日

(「下関の開港から英国領事館設置へ」 現地のポスターをもとに作成)

そして1901年。英国国王は日本政府に委任状の送付及び認可を要請し、ついに下関総領事館が設置された(「下関の開港から英国領事館設置へ」)。

 

建築について

この領事館を建てた人物はウィリアム・コーワン(William Cowan)。

特徴については下関市のホームページが詳しく述べている。以下抜粋。

本館の外観は、赤煉瓦を基調に開口部廻り等の要所に石材を用いた形で、南面を除く三方に煙突をもった階段状の壁をつくる点や、南側にアーチと列柱をもつべランダを設ける点に特徴があります。
また、内容は各執務室や居住空間として使われた部屋にそれぞれが暖炉が設けられ、天井にモールディングや中心飾りがあるなど意匠もよく整っています。

附属屋は、煉瓦造平屋建、建築面積77.6平方メートル、桟瓦葺である。東西棟で横長の切妻造建物の南面東端に片流れ屋根の小建物が付いた形で、全体でL字型の平面になる。外観の意匠は、本館にならってそれを簡略化した形になる。ただし、切妻造部分の南側では、腰壁より上部の壁面を木造でつくり軒裏を網代あじろ)天井とする等、本館とは異なる形にしている。内部は、もと使用人の部屋や物置・台所・便所等であったが、近年の工事によって喫茶室として利用するために改修されている。

引用:下関市 2014年7月30日

とりあえず大きな特徴は赤煉瓦を基調にした建物だということだ。

色自体も深みが増したワインのような赤で大変綺麗だが、レンガの積み方にも少し注目したい。

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目を凝らして見れば分かると思うのだが、長いレンガブロックだけの段と短いブロックの段が交互に積み上がっているのが分かる。これを「イギリス積み」だというらしい。

なんでも煉瓦の積み方の一種で、レンガブロックの長手(直方体のサイド面のうち、一辺が長い方)だけを並べた段と小口(煉瓦の切断面)だけを並べた段を、交互に積む方法で、強度が強く経済的だという(建築データベース)。

イギリスの建築家が建てたから、このような積み方になったのか。

どちらにしても興味深い。

一通り説明が終わったので、次は現地でのレビューをやっていきたい。

現地レビュー

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私は昔からレトロな建物が好きだった。特に木造建築か鉄筋コンクリートがお箱の日本に、異国情緒あふれるレトロ建築はいつも私の琴線に触れていた。

そんな中、レトロな建築が集まる下関の南部町は憧れだ。

特に気にいっている建物が一つある。

それが今回の「旧イギリス総領事館」だ。

まずは外からベランダを覗いてみよう。

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なんとも特徴的なのは、アーチと列柱だ。

この形を見ると、シリアの「パルミラ遺跡」を思い出す。

紀元前3世紀のローマ帝国の都市遺跡なのだそうが、列柱がきれいに並ぶ様は写真を見ただけで荘厳さが伝わってくる。

もちろん、この領事館は柱の数は少ないし、大きさもゾウリムシ並みに小さいがそれでも立派に見える。

次は入口に移動する。

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中庭は少し小さいようだ。

とりあえず、中に入ってみよう。

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ここが当時の領事がいた場所のようだ。

昔のフランスはルイ14世の散財で、ヴェルサイユ宮殿なるものが建てられたらしい。部屋の一つ一つが金で輝いていると聞いたことがある。

確かにすごいが、個人的にはこんなやたら高級感を前面に押し出したものより、シックながら高級感があるこの部屋が好きだ。

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特に気に入っているのがこの暖炉だ。

真ん中に大きく、聖エドワード王冠と盾を記した紋章がとても印象深い。

続いて2階に行ってみよう。

もともとは寝室だったそうだが、現在はカフェに改装されていた。

本場のイギリスの建築で紅茶を飲むのも、特権階級になった気分に浸れて良いと思った。

しかし、値段を見てビックリ。

紅茶が一杯、400円くらいした。

最近出費が多く、財布の中がレシートの山ぐらいしか無い私には少々酷なものがあった。

しかし、店員さんに中を撮って良いか確認したところ、OKをもらったので、これもついでに載せておこう。

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なかなか落ち着いていて良かった。

私の財政が健全化したら、また来たいと思う。

まあ、今はジンバブエナウルよりもお財布事情がしれているのだが…

以上、「イギリス領事館跡」からのレポートだ。

 

引用・参考

「大使館」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年11月29日

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大使館

「領事館」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年11月29日

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/領事館

アーネスト・サトウ」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年11月29日 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アーネスト・サトウ

下関市 「旧下関英国領事館の建築について」 2014年7月30日 2021年11月29日 

http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1179448344263/index.html

(株)クイック 「イギリス積み」 『建築・設備求人データベース』 2021年11月29日

https://plant.tennavi.com/dictionary/cat04/5415/

旧下関英国総領事館 「当館の利用について」2021年11月29日

http://www.kyu-eikoku-ryoujikan.com/rules/

旧下関英国総領事館 「旧下関英国総領事館」 現地案内 2021年11月29日

旧下関英国総領事館 「下関の開港から英国領事館設置へ」 現地ポスター 2021年11月29日

アーネスト・サトウ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 wikipedia掲載画像 2007年3月31日 2021年11月29日 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:YoungSatow.jpg