超Aboutな旅日記

訪れた史跡を片っ端から、適当にレビューするブログです。

【レビュー】7ヶ月で作られたインスタントな近世日本最後の城郭、山口県の勝山御殿

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現代の日本人に欠かせないものは?と聞かれた時、皆はなんて答えるのだろうか。

インスタントラーメンだよね(食い気味)。

人間が持っている時間というものは有限だ。それは今も昔も変わらない、千古不易だ。

しかし現代人は娯楽、仕事とスケジュールがどこぞの有名アイドル並みにキツキツになっている。

インスタントラーメンは忙しい方の時間を短縮して、おいしいものをレベルの高い合格点でオールウェイズ提供してくれる。

だから令和の世のマストアイテムと呼べるだろう。

そういえば、山口県には重要度が高かったからなのか、7ヶ月で作られたそれこそインスタントなお城が存在したという。

今回はそこを訪れた。

 

アクセス

まずはGoogle MAPを見てみよう。

 

勝山御殿は下関中心街から離れて、新下関の近辺にある。

だから、訪れる際は新下関駅から出るバスを使ったほうが都合が良いと思われる。

丁寧に説明すると、新下関駅から降りて城下町長府・関門医療センター経由のバスに乗り、御殿町というバス停で降りる。

その後、北へ少し歩くと目的の場所が見えてくる。

歴史

現地の案内板はこのようなことが書かれていた。

勝山御殿跡について
一八六三年(文久三年)風雲急を告げる幕末関門海峡において外国との間に戦いが起こる。
当時の長府藩主 毛利元周は、海岸に近い櫛崎城(県立豊浦高校東側)が危険なため急遽この地域(勝山御殿)を起工する。わずか7ヶ月で完成・スピード築城の記録となっている。
今も残る石垣や石畳は御座の門、大書院室、御寝所など六〇余りの部屋を持つ御殿があったことを忍ばせるに十分な威容を残している。

引用:ふるさと勝山の明日をつくる会 平成12年3月

いわく、もともと海の近くに拠点があったが、海外の船との戦闘に対処するために新しく作られたのが、勝山御殿なのだという。少し詳しく述べていこう。

長府藩と本拠地 櫛崎城について

多分、このブログを見ている方は知識が偏ったオタク(褒め言葉)しかいないと思うが、一応説明しておこう。

長府藩とは

江戸時代には、「支藩」という制度があった。コトバンクによれば、本家から分かれた者が藩主となっている藩とのことだ。

長州藩も例に漏れずこの制度を作っており、4つの支藩が存在していた。有名なのは関ヶ原の戦いで東軍と内通していた、吉川広家だと思う。戦後、彼は長州藩の東を守るため、岩国藩という支藩の1つを与えられ活躍している。

閑話休題

この4つの支藩の1つとして、長府藩があった。現在の山口県下関市に存在していた。先程の吉川家の藩とは反対に西の守りを任されていたという。

藩庁、藩の本拠地となったのは「櫛崎城」。Google MAPで見ればわかるがここら辺が藩の中心地だった。

しかし徳川幕府による一国一城令により廃城となり、かわりに藩庁はふもとの高校に館を置くことになっている。

しかし廃城後も軍事的な価値が高かったらしく、2つの砲台を備えていたという。

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(現在でも櫛崎城の石垣が残っている)

しかし、幕末になってくると藩庁のある土地にある問題が起こる。

外国船の襲来

偉い人物が自ら先頭に立って戦うことはどの地域、時代でも絶賛を受けていた。

トロイの木馬で有名なトロイア戦争で、王子自ら最前線に立ち、トライアを守るヘクトールは現在まで叙事詩として残っているし、自軍の3倍もあるペルシャ軍を先頭切って勝利した、アレクサンドロス大王は今なお人気の人物だ。

しかし幕末は少し事情が異なる。火砲が発達したためだ。長距離から攻撃することができるため、偉い人が先頭にたってもすぐ死んでしまうだけで無駄になるのだ。

当時、関門海峡山口県と福岡県の間にある海峡)には外国船が多く姿を現し、中には戦闘を交えるケースも起きた。

有名なのは下関戦争だ。

ありていに言えば、アメリカ、イギリス、フランス、オランダvs長州藩との戦争だ。

現代の感覚でいうと、1つの日本の県が4つの大国と争う、どういう外交をすればこんなことになるの?と頭を傾げてしまうほど無謀な戦いである。

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Jean Durand-Brager "The Second Battle of Shimonoseki, 5th September 1864 " 1865 public domain Wikipediaより引用

実際、この戦いで激しい攻撃が加えられ集落の一部は大きな被災を被り、砲台も占拠された。

こんな感じで海峡はとても危険だったようだ。

もちろん先程のGoogle MAPから分かるように当時の藩庁であった「櫛崎城」は海峡の真正面にあるから戦場の最前線にあたる。

偉い人達がこんなところにいてはロングレンジからハメ技みたいに集中して攻撃されるし、結果的に指揮系統も乱れてしまう。一昔前のように偉い人が先頭に立つのは邪魔なだけで、栄誉もクソもない。

だから、少しでも早く戦略的に良い場所を藩庁として立て直すことが必要になった。これが「勝山御殿」である。

勝山御殿

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名前自体は「御殿」という名前がついており、貴族が「いとをかし」と和歌を唄いながらノンノンと過ごしてそうな雰囲気がある。実態は敵の攻撃を想定したファンキーでアグレッシブな城郭だったようだ。

城の曲輪、石垣や土塁は砲撃戦を意識した西洋式の砲台の作りをしているし、本丸の作りも砲撃の目標となるやぐらなどは作られず、平屋の殿舎を建てていたらしい。

また個人的には立地も気になる。先程のGoogle MAPから分かるように3方が山に囲まれているため、非常に守りやすく、敵には攻めにくい土地になっている。まるで3方が山に囲まれて天然の要害となった鎌倉のようだとかんじる。また海からの砲撃にもさらされず、長府の中心街からの連絡も容易で防衛にもってこいな実践的な土地だ。

もし敵に攻められてもある程度は耐え抜けたのでは?と思ったりするが、皆はどう考えているのか是非とも教えて欲しいところだ。

現地レビュー

今回は趣向を変えて、実際私が城を責めている体にして書いていこうと思う。

一応どこにあるかも示してあるので、参考にどうぞ

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①大手口 

大手口とは、ひとつの城の区域内へ踏み込むために設けられていたいくつかの入口のなかでも城の正面にあたる入口のことであるという。

つまり敵側からすれば、最初の難関ともいえる。

城入ろうとする敵を威圧するように、大手門では石垣で固めることも多いがここも例外ではないようだ。

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パンフレットによれば、三ノ丸の石垣は「落とし積み技法」というものを使っているらしい。なんでも小さな石材を用いる、効率性を優先したものらしい。

確かに時代の背景から考えれば、効率性を優先して少しでも早く拠点を移さなければ、海上からの攻撃に晒され続ける、貝殻がないヤドカリみたいになってしまう。

しかし、効率性を優先したということは頑丈に作られていないとする。ならば、砲撃ですぐ石垣が崩れてしまい、すぐ突破されるのではないかと個人的には心配になる。

当時の人はどう感じていたのだろうか。

またここの大きな特徴として入口の横先に少し出っ張りがある。専門的な言葉では張り出しとかいうらしい。

写真の真ん中に少し出っ張りが見えると思う。これが張り出しだ。

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敵が大手門の正面を攻撃している間、この出っ張りから横を弓で攻撃するらしい。

敵側からすれば正面に集中したいのに、横からチクチク攻撃されれば肉体的だけでなく、精神的にも参るだろう。

上司から叱られている中、後ろから陰で同僚やらがチクチク小声で嫌みをいわれているのと同じ感じだろうか。

ダメだ。思い出しだけで胃に穴が空いちゃいそう。

次に行こう。

②三ノ丸城塁

ここの上面では西洋式の砲台が設置されていたそうだ。

今はもう埋められているが、昇降用の階段まで設置されていたらしい。

城郭から地上まである程度高さがあるので、ナポレオンが高地をとることで勝利し続けたように優位に砲撃戦を進めることができたのではないかと思う。

昔は土塁で直接姿が見えないようにしていたようだが、今はその片鱗もない。

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③二ノ丸城塁

ここの特徴はなんといっても、石垣が円弧状に配置されてある点だ。

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写真でも石が曲がりながら並べられているのが確認できると思う。

敵が一直線に侵入されないようにするためらしい。

デパートのバーゲンセールにて全力疾走するババアマダム達を想像してみてほしい。

彼女らが全力疾走する先にいきなり大きなカーブがあるとどうなるでしょうか。

多分、スピードを大きく落とすか、ブレーキが効かず壁にカートゥーンアニメみたくぶつかるかの2択だろう。

この城郭でも同じだと思う。まっすぐ責められたら勢いを殺せず、その攻撃力が大きな負担になってしまう。だからその勢いを少しでも殺し、防御側が優位になるようにしているのだろう。

④御殿

最後は御殿周りの守備だ。

まず石垣は先程の「落とし積み技法」とは違う。

山県積み」という石積みの技法を使っているという。珍しい積み方のようで、朝日新聞によれば、"巨石をふんだんに使い、石材の長軸を斜めに置き、その上の石材は並びが逆になるように長軸を斜めに置くことだ。天端には大きな石を据え、隅角部には縦石を使う傾向もあるようだ"、という。

写真を見たら早いと思う。

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大きな巨石ばかりを使用しているが、緊密に隙間が空かないような綺麗な作りをしている。

上から大きな力が働いた地層のように見える。

個人的な感想を言えば、石と石の間に隙間がないので手をかける場所がなく、責めにくいなと思う。

結局、勝山御殿は廃藩置県後は豊浦県庁となったが、山口県に統合されたことでその役目を終えた。

しかし幕末当時の幕末当時の軍事的な指針や築城理念を体感するには持ってこいな場所だ。

是非一度訪れては?

引用・参考

ふるさと勝山の明日をつくる会 「勝山御殿跡について」現地案内板 平成12年3月

コトバンク防府市歴史用語集「支藩」の解説支藩』2021年12月31日https://kotobank.jp/word/支藩-285038

長府藩」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年12月31日https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長府藩

「下関戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2021年12月31日https://ja.m.wikipedia.org/wiki/下関戦争

下関観光施設課 「串崎城跡」 現地案内板 

刀剣ワールド城 「大手門」 『日本の城用語集』 2021年12月31日 https://www.homemate-research-castle.com/useful/glossary/castle/2123501/

下関市 「国指定史跡勝山御殿跡〜幕末、外国艦隊から備えた長府藩の拠点城郭〜」現地案内板 2020年10月 2021年12月31日 

萩原ちさこ「幕末に急造された近世最後の城、勝山御殿 長府の城と城下町(3)」 『城旅へようこそ』 朝日新聞 2019年2月4日 2021年12月31日https://www.asahi.com/and/article/20190204/300023104/

下関教育委員会教育部 文化財保護課幕末の中、築城された「日本最終期の近世城郭」〜国指定史跡 勝山御殿跡〜 現地案内ガイドブック」 平成31年3月