超Aboutな旅日記

訪れた史跡を片っ端から、適当にレビューするブログです。

【レビュー】長門国二ノ宮「忌宮神社」

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冷戦が終わった当時、人々はこれからは平和が訪れると楽観的に考えていた。

というのも、民主主義国同士で戦争が起こることは少ないとされているためだ。

例えば、政策を決定する過程が透明であるために相互の行動が予測可能であるのが理由の一つだ。

共産主義から民主主義に移行する国が増えらから、戦争になる確率はより少なくなるはずと、市民も学者も政治家も口を揃えて言っていたことだろう。

しかし、これはプリン・アラモード(好物)よりも甘い考えだったようだ。

冷戦時代のような世界的な大戦争の危機は去ったが、代わりに地域固有の対立が顕在化するようになってしまった。

民族の間の対立は最たる例だと思う。

最近でも、アゼルバイジャン人とアルメニア人の間の領土争いであるナゴルノ=カラバフ戦争も発生し、ウクライナ系の人とロシア系の間で対立を深めているのも、ニュースで見た通りだ。

日本人は対岸の火事だと思って、コタツでぬくぬくみかんを食べて、ニュースをぼーっと見ていることだろう。

私もこの中に含まれるけれども…

しかし、太古の昔、ここ日本でも民族の対立というものがあったようだ。

今回は関係が深い、ある神社をレビューしていく。 

 

アクセス

まずはGoogle MAPを見ていただこう。

 

歴史

まずは現地の案内板を見てみよう。

忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下、この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫の香稚で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀して一段となり、忌宮をもって総称するようになった。忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五十六年に改修する。古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている

出典:「長門国二ノ宮旧国弊社 忌宮神社 由緒」 忌宮神社 現地案内板

まとめてしまうと、第十四代仲哀天皇が九州にいる反乱勢力(熊襲)を制圧するために、一時的に政治を行った場所を起源としている。

つまり天皇陛下がどこかに移動した際、一時的な宮殿として建てられたものだったという。

以上が当社の起源だ。

熊襲とは?

彼等に関する記憶は、風習、言語含めあまり記録に残っていない。

コトバンクによれば、"古代の南部九州の地域名、あるいはその地域の居住者の族名"のことをいうらしい。

また、日本人種新論で国学者本居宣長の説も紹介されている。

内容としては、”熊とは、其の國人の勇猛强悍なるを云ひ、襲とは勇男の約りたるにして…(中略)…故に熊襲なる語は、共に其の國人の勇猛なることを意味する語より出たるものなりとせり。"

つまり、熊はこの民族の人たちが勇猛であることを示し、襲の意味が勇男(いさお)を短くしていることからきているため、熊襲は勇猛果敢な者たちだった、ということを示しているという。

他にもいくつか説があるのだが、結局のところ、熊襲は九州南部の地域名やそこに住んでいる人たちのことであり、勇猛な民族という意味の熊襲が示す通り、大和政権と反目し、何度も戦いあった関係、古代中国でいう漢民族遊牧民族のようなものだと言えるのかも知れない。

仲哀天皇熊襲忌宮神社

熊襲と朝廷の関係は、昔から悪かったようだ。

例えば、仲哀天皇の2代前にあたる、景行天皇は朝廷に背いた熊襲を攻撃するために、自ら九州に向かっている。

また、仲哀天皇の父にあたるヤマトタケルも再び再び反乱した熊襲のリーダーを切り殺したそう。

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"御歴代百廿一天皇御尊影" 三英社 1894 wikiより引用)

そして仲哀天皇の時代も例外ではなかったようだ。

日本書紀にこんな一文がある。

"熊襲叛之不朝貢"

熊襲という方たちは朝廷へ背いて、贈り物を送らなかったらしい。

そこで仲哀天皇は彼らを討つため、穴門(現在の山口県下関市)まで移動し準備することにした。

このような中、地方である下関でも政治を行えるよう、仮の宮殿、「豊浦宮」を作ったという。

これが忌宮神社の起源だ。

ちなみにその後の仲哀天皇だが、熊襲を攻撃するために筑紫(現在の福岡県)まで移動した。

そこで会議をしていると天皇の奥さんに神様が取り憑いて、こんなことを言いだした。

「ペンペン草も生えない熊襲の国を攻めるより、金銀財宝ザクザクの朝鮮半島の国を攻めた方がいいんじゃね(意訳)」

でも、天皇が海を見回しても、そんな国はない。だから神様は嘘をついていると思い込み、そのまま熊襲を攻撃したのだ。

結局、いうことを聞かないことに神様の怒りが触れたのか、仲哀天皇は戦死し、彼の魂は現在の忌宮神社に祀られたという。

以上が仲哀天皇熊襲平定と忌宮神社の関係だ。

現地レビュー

忌宮神社のある下関市は大きな港町だ。

今は建物や防波堤がたくさん建てられているが、本質は変わらない。

潮風が頬をくすぐり、海独特の匂いが心地よい。そしてたくさんの海産物もとれ、住むにはもったいない場所だ。

こんな良いところで行宮を建てた、仲哀天皇は羨まけしからん。

この行宮があった場所が現在の忌宮神社らしい。

それでは入口から見ていこう。

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忌宮神社がある場所は、昔は長州藩の城下町があったらしい。

現地もその姿を残し、風流ではある。

しかし、江戸という時代はもちろん車というものがなかったわけだから、それを想定した道が作られていない。

おかげ様で、狭い道路を何度も行き来することになった。

免許をとった数日後に、壁にぶつけた才能のない私には酷だった。

さて、入口の鳥居をくぐった先、印象に残ったのは「」だった。

神社という場所で、なぜ別名、名古屋コーチンで有名な鶏という呼称が出るのか?、と思った人は的を射ていると思う。

その疑問に答えると、神社の中ではニワトリが放し飼いにされていたのだ。

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現代の日本人から見れば、ニワトリはただの家畜、食料、唐揚げ美味い程度の認識ではあるが、古代の人にとってはその限りではない。

例えば、ニワトリは神の使いとして有名だ。神話の時代、天照大神が天岩戸にお隠れになった時、ニワトリを泣かせて外に呼び出したそう。それがきっかけで神、天照大神の使いになったようだ。

また、お正月で有名な十二支の一つに、ニワトリがいるのも昔の人々が神聖視していたことがわかる。

こう考えると、神社にニワトリがいるのも自然なのかもしれない。

さて本題から少し逸れたが、次は本殿を見てみよう。

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やはり、長門國の二ノ宮だけあってか、存在感がある気がする。

さて、散策している途中、少し興味深いものがあったので載せておきたい。

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案内板にはこう書かれていた。

数方庭の由来と石
十四代仲哀天皇は九州の熊襲の乱を平定のためこ西下、ここ穴門(長門)豊備(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島新羅国の塵輪熊襲を煽動し豊浦営に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高騰、助騰の兄弟まで相次いで討ち死したので天皇は大いに慣らせ給い、御自ら弓矢をとって塵輪を見事に倒された。賊軍は色を失って退散し軍は歓喜のあまり矛をかざし旗をを振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数力庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったと
ころからその首を埋めて頑った石を鬼石と呼んでいる。

出典:「数方庭の由来と石」 忌宮神社 現地案内板

分かりやすくいうと、熊襲という反乱勢力を先導していた朝鮮半島にある新羅國の塵輪という人を倒した際、その死体の周りを踊ったことを起源とした石らしい。

しかも現在でも、数方庭祭りとして周りを踊りのが続いているから、驚きだろう。

何も死体の周りを踊らなくても良いのに…とは思うが、それほど塵倫が憎き相手だったのだろうか。

少し調べたら、この案内板に書かれてあることは石見神楽というものの演目の一つになっているようだ。

浜田商工会議所によれば、

あらすじは「神2人鬼2人が対決する鬼舞の代表的な神楽です。第14代仲哀天皇(帯中津日子)は、外国より日本に攻め来た数万騎の軍勢の中に塵輪という、身に翼があり、黒雲に乗って飛びまわり人々を害する大将軍に官軍には誰も敵(かな)うものが居ないと聞き、天皇自ら天の鹿児弓、天の羽々矢を持って高麻呂を従え迎え撃ち、激戦の末に退治します。」といった感じのようだ。

塵輪が翼があったり、黒雲になっていたりと悪魔のような感じになっているのは、戦いの正当性を高めるためなのだろうか。

「自分たちは人間ではなく、悪いことを企むゴロツキを倒したのだから、この戦いには正しい」

と言った感じなのだろうか?しかし塵倫や熊襲にもそれぞれ戦ったり、背いたりする理由があったのだと思う。

中には、朝廷側にとって都合が悪いものがあった可能性もある。だから、塵倫のように悪魔のような姿に仕立て上げたり、熊襲のようにあまり古事記日本書紀に彼等の記録を残さなかったのか。

朝廷側の所業は当時の食わなきゃ食われる自然状態のような時代にはしょうがないと思う。だけれども、ツヴァイクの言うように、"歴史はいつでも敗者に背を向けて、勝者を正しいとするものだということを忘れてはならない"、と感じる。

参考・引用

長門国二ノ宮旧国弊社 忌宮神社 由緒」 宗教法人忌宮神社 現地案内板

コトバンク熊襲」2022年2月18日

沼田頼輔「日本人種新論」嵩山房 明治36年 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/832936/32 2022年2月18日

景行天皇」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2022年12月20日URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇

ヤマトタケル」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2022年12月20日 URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマトタケル

「足仲彥天皇 仲哀天皇」 『日本書紀について』 2022年12月20日 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_08.html

「数方庭の由来と石」 宗教法人忌宮神社 現地案内板
宗教法人 忌宮神社,"神社概要”,iminomiyajinjya.com/information,2021年9月29日 
浜田商工会議所 ”スマホで見る 浜田石見神楽演目ガイド 「塵輪」"  www.hamadacci.or.jp/kagura_s/sma/03/index.php 2021年9月29日

"御歴代百廿一天皇御尊影" 三英社 1894 wikiより引用